少し前の話になるが、夏休みの終わりごろにとある小学生の塾生から「クラスにChatGPTで宿題やった子がいる」という趣旨の話を聞いたことがある。
夏休みの宿題を生成AIなどに頼って済ませる子がいる、というのは夏休みの時期になるとワイドショーなどでもよく話題にされる話だけれども、こうして話で聞くようになると改めて、実際にいるものなんだなと思ったものだ。
勉強に限らず仕事でもそうだがAIに頼った方がいいという考えの人は増えている。もちろんその方がいい面はたくさんあると思うから否定はしない。ただ、私がその塾生に話したのは「君は『今は』使ったらだめだよ」ということだった。
AIでも何でもいいのだが、新しいものによってなぜ効率が上がるのかを知るのは、残念ながら若者や子供たちではない。それがなかったころを知る世代になる。AIなどの持つ利便性をどこに用いれば効率がいいのか、無駄が減るのか、時間がかからなくなるのかは、それがなかった場所に当て込んでいくことでしか測れない。
これは若者や子供を馬鹿にしているのではないし、説教をしたいわけでももちろんない。生まれたころから、物心ついたころから、社会に出る前からこの手のAIなりデバイスなりがあると、それがあるのが当たり前になり、使うのが標準になり、「それがあることによってどこのどういうところが効率的なのか」を肌で感じる経験はもうできない。これを感じるのは「なかった世代」だ。我々中年世代で言うなら携帯電話がそうで、私は持ったのが大学生になってから。携帯メールやインターネットのおかげで便利になった経験をしたのだが、それはとりもなおさず携帯がなかった時代を知っているからこそだ。「今までやってた連絡、メールの方が楽やん」となるからだ。しかしそれを作って世に送ったのはそんなものが影も形もなかった世代の人たちだ。「なかった世代」は時代遅れではない。時代を作る礎になったのだ。
話を冒頭の小学生に戻すが、私が生成AIの類を「今は」使うなと彼に言ったのは、AIを忌避しての発言ではない。その子が大きくなって大人になったころには、AIでも何でもいくらでも活用できていてほしいと思っている。ただしどこで使えば効率がいいかのように工夫する頭は、小さい頃から全面的にAIに頼っては養えない。だからこそ今は不便でも自分の頭を手を使う訓練をしてほしい。その方が小さい頃からAIを使うしか能がない人よりもはるかに効率よく効果的に使いこなせるようになっているはずだ。せっかくの便利なツールなんだもの、他の人よりも使いこなせるための素地を小さいうちに育んでほしいという思いを込めて話した。

