日記から情報発信の体裁に変えてからというもの1か月ほどが経ちましたが、書くことに困りはしないものの、どうも言葉を書いて言葉を重ねている自分自身の姿が「何か違う」という思いが拭い去れなくなってしまいました。嘘をついているわけでもないのに、書いている姿と自分自身が何か遊離しているような変な気分になります。
そこで過去に自分で書いてきたことを見返してきましたが、内容はいろんなことを書き連ねて時には「ひどいこと言うなあ、我ながら」と思いつつも、やはり私らしさと言いますか、言い方ひとつで滑らかに言葉にできると言いますか、文章ってすごいなあと改めて思います。
そこで二転三転しながらになって申し訳ないのですが、やはり自分自身のスタイルを一番にすべきではないかという考えから、毎日のこの投稿を日記スタイルと「だ、である」口調に戻そうと思います。
昨日の続きである小学生の勉強のお話を今日は書くつもりですが、口調は明日から戻します。さらに書く内容も戻しますし、8月以前の口調と書き方にもなりますので、悪しからず。
上限を勝手に決めない思考
小学生の勉強という内容で昨日は「漢字を学ぶ」ことと「授業の再現」という2点に絞った話をしてきました。

これに加え、ここでは親御さんにかかっている考え方についてみていきます。それがタイトルにもした、「お子さんの上限を勝手に決めない」思考です。
一見難しい言い方に聞こえますが、話自体は簡単です。「まだ〇年生だから」「まだ〇才だから」と年齢などを理由にして、物事を進めるペースやお子さんに要求する物事のリミットを決めてはいけないという思考です。
これはひとえに親御さんの中に芽生えがちな「無理をさせたくない」という目や「しんどそう」と思った瞬間「これ以上はやめてあげたほうが」という心のブレーキによるものだろうと思います。
ただ、お子さんが本当に無理なのかどうかは、取り組んでいる姿だけでは判断できません。私でもそうで、お子さんの姿を見て「これ以上は無理かも」とこちらで思っていても、お子さん本人が「まだ大丈夫」とあっけらかんとした顔で言ってくることがありますから、「危ない危ない、こっちで勝手にフタするところだった」と思うこともよくあります。
無理をすることの意味
見極めは難しいですが、無理をすることはぜひ経験した方がいいと思っています。
あまりに先回りして「○○ちゃんにはまだ早いよね」とフタをしてしまうと、こちらとしては単なる親心であったとしても、お子さんには「じゃあこれ以上はやらなくてもいいのか」と単純に受け取ってしまい、「無理をする」という思考が頭から心から抜け落ちます。それをお子さんの勝手な解釈と思うのは、それこそ大人の勝手な決めつけです。
結果、お子さんは無理をすることを嫌がります。その段階になって「もうちょっと頑張ればいいのにな」と親御さんが嘆息したところで、後の祭りです。なぜならそれは親御さんがもたらした必然ですから。
逆に少々の無理をするのは当然だと考えられる頭と心で小学生時代を過ごしたら、それはいつしか習い性となって中学生以降の姿勢に行きつきます。例えばの話ですが「国立大学を目指したい、そのためには他の人よりも勉強するのが当然」と言われれば「ああそうですか」とばかりに当たり前のように勉強をするようになります。家族その他から「無理をすること」を止められた経験がないからです。
ここで注意
あくまでも私が言いたいのは「勝手にお子さんの様子だけで『ここまででいい』と決めない」ことでありまして、何も「どんな無理でもしろ」とお子さんに必要以上の無理を強いてくれと言っているのではありません。お子さんが前向きに挑戦しようとしている限り、そこに必要以上のブレーキをかけないでほしいと言っているのです。
では、どのラインまで親御さんは見ていればいいのか、どのラインを越えたら止めるべきかという話になりますが、これは単純に考えましょう。年齢相応の生活習慣を害さない程度です。必要以上に夜更かしすることや、食事も忘れる、友達と遊ぶなどの自然な日常生活を犠牲にするなど、通常の生活習慣などを過度に脅かさない程度を見極めてあげることが大切だと思います。
どうかお子さんが限界にぶち当たるまでは見守ってあげましょう。その経験を親御さんの判断で勝手にフタするのは、お子さんの将来にフタをするに等しいことだと私は思います。これは勉強だけの話ではありません、スポーツでも文化活動でも一緒です。

