「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とは、南海(今のソフトバンク)、ヤクルト、阪神、楽天と様々なプロ野球団で監督をつとめた名将、野村克也さんの言葉だ。
勝つときには、確かに「なんで勝ったの?」と思うくらいの試合は見かけることがある。ただ、負け試合は「あそこであんなことするから」「あそこで点が取れないから」など、監督の采配であったり、選手のミスであったり、何かしら敗因が分析できることが多い。
勉強においてもそうで、いわゆるまぐれ合格というものは毎年見ることがある。もちろん、それまでに重ねた努力の結実として、記念受験レベルの大学になぜか合格しちゃった、ということでもあるので、努力が背景にあることは最低限の前提条件だが。
では、不思議の負けなしという部分。ここが一番言いたいことであって、抽象的に言えば勉強量不足、やる気がなかった、などの理由であったり、やや具体的な言い方をすると、受験戦略がずさんだった、過去問の研究が足りなかった、科目間の勉強のバランスが悪かったなど、原因がわりと挙げやすい。
抽象的な話はここまでにして、ではこの不思議の負けなしの部分をどう解消していくべきか。まずは、「こうしたら落ちるぞ」という、失敗例を学んでおくこと。「しくじり先生」というテレビ番組(今はネット番組か)があるが、あのように失敗した先達の例を見聞きして、同じようにしないことを心がけていくのが始まりだろう。
成功例から学ぶのも大事だろう、と言われるかもしれないが、では極論を言うと大谷翔平選手のような人と同じような努力をすれば、MLBで投げては二けた勝利、打ってはホームラン50本になれるのか、ということになる。成功例は、あまり好きな言葉ではないが属人性が強すぎる。方法も大事だが、「この人だからうまくいった」という部分が強すぎるのだ。マネできる代物ではない。
しかも、成功例には極端なものも多い。「教科書だけ勉強して東大」、「暗記はほとんどしなかったけど、こうやって事項を整理して英語をマスター」の類だ。こういう話を聞いても、「いや、あなたが頭がよかったからではないんですか?」と疑問がわいてくるのではないか。成功例を話す人に悪意がないのはわかっているけれど、どうしても「この人だからうまくいった」になってしまうだろう。成功例の危険性は以前も書いたことがある。

その点、失敗例は普遍性が高い。練習をさぼって成績が落ちた、数学ばかり勉強して英語をおろそかにした、などのような失敗例は多くの受験生に当てはまるだろう。もしかしたら、先の大谷翔平に当てはめるなら、「メジャーで二刀流で成功した」部分を学んだり、マンダラチャートのような方法論にすぐ飛びつくより(もちろんそれらに意義があることは十分承知の上で)、もっと前の「なぜ甲子園で優勝できなかったか」などの反省を聞く方がよほど勉強になるかもしれない。たぶん、彼のことだからそういう挫折も血肉にしているだろうし。
そして、その失敗例ををもとに学び、同じ轍を踏まないようにしていくことで失敗の確率を下げる方が、成功例にのみ学んで成功確率を上げるよりも、より確実性が高いと思っている。
私も塾内では「こういうことをして落ちた子がいる」、「こういう考えが抜けなくて、結果第一志望には行けなかった子がいる」など、教えるのは圧倒的に失敗例が多い。だから○○をやりなさい、あるいは△△はしてはいけないよ、と伝えるためだ。うまくいった話をするときは「こうやって点数上がった子がいるから、こうするとうまくいく『かもよ』」程度でしか話さない。それは、失敗例に当てはまる確率の方が、成功例に当てはまる確率よりずっと高いことを身をもって体感しているからだ。
塾などのホームページを見ても、目にするのは「成績アップ事例」や「合格体験記」の類だ。それは塾の教育方針や講師のレベルなどをPRするうえで大切なものであるのには間違いないし、それを見て入塾を判断するのも当然正しい。でも、いざわが子の勉強や受験を考える段になれば、見るべきものは「不合格体験記」、「成績ダウン事例」の方だ。そこから親子ともに学び、失敗を避ける日常を模索してほしい。

