とある英語長文の授業での一幕。
natural selectionという英語が文中に登場した。直訳するなら「自然の選択」ということになるが、英文の下にある注釈には「自然淘汰」とある。なるほど文の意味を考えればその通り。当然塾生は自然淘汰と訳してきた。
そこで一言、「じゃあ自然淘汰って何?自然はともかく淘汰って何?」と尋ねてみる。彼は答えられない。沈黙の時間が流れる。つまり彼は注釈だけ見て訳してきただけ、ということになる。
特に大学受験生に限った話ではない。中学生でも小学生でも同じこと。知識を増やすための行動の有無の話だ。知らないことが出てくるとき、調べたり人に尋ねたりすることができるかどうかが、学力を分けるという話だ。
昨日の日記では「周りへの関心」について触れた。

身の回りの自然や社会、というと話が大きすぎるのなら、こういった問題集や国語の文章などに出てくるものでもいい。知らないことが出てきたときにすぐに調べようという体制になっているかだけでも、積もり積もって大きな差になって現れる。それは語彙力であったり教養であったり。現代文や英文を読むうえで助けになり、ひいては大学その他、社会に出ていった際にも大きな力になる。
今はなんでもすぐ調べられる時代。AIに頼る手もあろう。ただひとつだけ大切なのは、そのツールに頼る前提がなければ、どんなに便利なツールを手に入れても意味はない。そもそも使うきっかけが作れない。
昔を引き合いに出すが、「計算なんて電卓、計算機でできるんだから算数なんていらんやん」と言ってきた小学生がいた。スマホなんて影も形もなかった本当に大昔の話。そんな子に言ったことがある。「何を計算したらいいか、計算機は教えてくれないよ」と。そもそも今からする計算が足し算なのか掛け算なのかもわからない状態で、電卓を使おうにも、入力する式がわからなくては何の意味もない、という趣旨の話をした。しぶしぶその子は算数の問題集に戻っていった(笑)。
知識への意識だけは、どんなにデジタルだAIだと騒いでも必要不可欠だ。少なくともそれを使いこなすには、前提たる知識がなくては意味がない。まだ今は受験の世界でその最後の牙城を護ろうとしている。私も一緒に、知識への意識だけは絶やさないよう努めたい。

