昨日、高校生と話をしているうちに読書の話になった。
高校現代文の教科書には中島敦の小説がよく採用されているのだが、聞いてみると「面白かった」という感想が返ってきた。
教科書の文章をきっかけに、中島敦のファンになる人は少なくないと聞く。私もご多分に漏れずその一人で、多くの教科書では「山月記」が採られていることが多いそうだが、私の高校時代の教科書では「名人伝」が採用されており、これをきっかけにファンになった私はすぐに文庫を買った。「山月記」、「名人伝」はもちろん、「李陵」や「弟子」も読み、今私の一番のお気に入りは「弟子」だ。
中島敦の文章の特徴は、一にも二にも漢学者一家で生まれ育った環境から得た古今の教養の数々を下敷きにし、さらに漢文くずしの格調高い文体で書き上げた美しい文章にある。その文章には、漢文の持つ音読みのリズムがあり、野暮な表現を使うなら「格好いい」文である。それでいて、英文学に影響を受けた清新の気風を帯びていて、古典然としていないため、文体にかかわらず古さを感じさせない(作品の一つ「光と風と夢」は、「宝島」などの著者であるイギリスの作家スティーブンソンのパラオ滞在時を題材にしている)。こういう美しい文章に触れる機会を失わせないでほしい、と教科書に教育行政に切に願っている。
話は変わって、国語の話。
わが子の国語力不足や勉強の成績不振を、読書不足に求める親御さんは多い。もちろん否定はしない。勉強が得意、成績がいい子というのは、往々にして読書習慣がある子が多い。
だが、読書さえすれば成績が上がるのかと言うと、それは簡単な話ではない。これは以前に書いた。

読書で得られるのは、国語の点数を取る力ではない。国語の点数が上がる子ももちろんいるけれど、それは読書を通じて勉強した、学力が上がった結果でしかない。でも国語に通じるものはあるだろう、と思われるだろうが、それはせいぜい文章慣れができる程度だろう。全く文を読まない人と比べれば歴然と差が現れるのは間違いない。けれど、その程度しかない。

読書は何のためにするか。それは心を豊かにしたり、書かれた内容から勉強して教養を得たり、といった、精神活動の充実にある。文学小説などを読むのはそこにある。それを仕事に活かそう、勉強に活かそうという段になると、読書は精神活動の充実から勉強へと転化していく。ビジネススキルの本を読んだり、知識を解説してくれる本を読んだりするのはこれにあたろう。
改めて、読書で国語力をつけるのは間違いだと思っている。あまりにも迂遠な作業だし、そもそも読書の本質からはズレている。それよりなにより、読書から学ぶことの大切さの方を教えてあげてほしいし、私も伝えたい。
(写真は「山月記」の主人公、李徴が変身してしまった姿である虎)

