2024年10月28日 不毛な、いや有害な「不要論」

中学生

いつだったか、テレビタレントの何某が「人生で一度も古典が役立っていない」というような趣旨のことを言ったことがあるらしい。

勉強に限らないが、「〇〇不要論」という類の議論はちょくちょく聞いてきた。

「因数分解が何の役に立つんだ!」「微分や積分が何の役に立つんだ!」「サイン・コサイン・タンジェントが以下略」・・・。

私は何も、「必要論」を展開しようとは思わない。

そもそも、「〇〇は不要」、「〇〇は役に立たない」という主張をする人は、「〇〇を必要とする人生を送ってこなかった」に過ぎないと思うだけだ。

ここで、うかと「〇〇は日ごろ使っているこんな場面で・・・」と議論に乗っかる必要はなかろう。

「あなたの人生ってその程度なんですね」で終わりで、その人とはもう(少なくともそのテーマにおいては)話す必要はない。

これはその人がダメな人、と言っているのではなく、根本的に価値観が合わない、ということだ。

勉強もそうだと思う。

「暗記をする意味が分からない(からしたくない)」、「古典なんて勉強する意味がわからない(からしたくない)」の類の話をする子がいるかもしれない。

多分、そういう場面では「じゃあしなきゃいいんじゃない?」で突き放すか、「そもそもそれを勉強する意味を本当に真剣に考えたことあるの?誰かに聞いてみたことあるの?自分で勝手に考えて勝手に決めた意味なんて、それこそ意味はないよ」と言ってしまうだろう、私の場合は。

何が言いたいかというと、あらゆるものには存在する意味がある、ということ。その意味付けをするかしないかは、個々人の人生観や人生の歩みが決めるものであって、他人や世間に広く喧伝して回る必要なんかない。

それどころか、赤の他人から意味付けの機会を奪いかねないという意味では、罪悪とさえいえる。

このタレント何某はこう付け加えるべきだったのだ。

古典を勉強する意味が「僕には」なかった、と。

前は好きなタイプのタレントだったが、今ではそのタレントをテレビで見かけると、即座にチャンネルを変えることにしている。

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