毎日のように、思いを日記に書くようにしていくと、たまに見返してみたくなる。
見返すと、いろんな塾にブログがあるが、塾ブログというと入試の話、教育論の話、勉強法の話などをすることが多いはずなのに、そういう話(話題としては挙げても具体的な方法論のような話)をほとんどしていないことに気づく。
この流れなら「じゃあたまには方法論の話でもしよう」ということになりそうだが、やはりしない、というよりできない。
では私にはいわゆる教育論というものがないのか、というとそうではないと思う。
「と思う」とはいささか頼りない言い方だが、私は「確固とした教育論」というものを、意識的に持たないようにしている。
教育論というのはなかなか厄介で、「教育とはこうあるべきだ」のような「べき論」に終始してしまいそうで気持ちが悪いのだ。
私にも教育論に似たものはある。ただそれは、「教育とは」を直接に規定する考え方ではなく、かかわった子たちに「こうなってもらいたい」という主義主張のようなものだ。
これだけなら多くの塾や教育機関、評論家などの有識者だって話してくれると思う。ただ、私はこれ以上の話はしたくない。なぜしないかと言うと、「そのために〇〇をしましょう、させましょう」「〇〇はいけません」のような、具体的な方法論に行きつくからだ。私ははっきり言って今、この「方法論」とかいう奴が大嫌いなのだ。
なぜ方法論が嫌いなのか、というと、方法論を唱えると、その方法論に縛られてしまうからだ。
「〇〇さんはリビングで勉強させたから成績が上がった」みたいな考えになってしまうと、「リビングで勉強すること」が主題になってしまう。「同じ問題集を繰り返しましょう」という考えになってしまうと、問題集そのものの良しあしではなく「周回させること」が主題になってしまう。教育に限らず、およそあらゆる問題には多角的な視点での観察や対策が必要なのであって、方法論に終始していいものではないはずだ。
ただ、情報を受け取る側は方法論に弱い。実に弱い。なぜなら、方法を教えられると「これさえすればOK」のように錯覚し、いろいろな角度から考える、という必要にして面倒この上ない作業から逃げられる、と考えてしまうからだ。
だから私は、「これをすればいいですよ」というような方法に関する話は、すでに考える力が備わっている、と判断した生徒にしかしない。「何をやればいいですか?」のように、方法を尋ねようとする質問にはあまり耳を貸さない。方法はいくらでもあるが、大事なのは方法ではなく、目標を目指す強さだ。それが先にあるべきで、方法は2番手以降のお話だ。
とりとめがなくなってしまった。
私は方法論は持たない。あるのは「強さ」を求める姿勢を伝えることだけだ。あえて言うなら、「子供たちに強い人間になってもらうために、日夜考えること」が私の教育論と言えるかもしれない。


