体調不良を例に、ハードルを下げる大人

日々の考えあれこれ

昨日の続き。

今の価値観の大きな特徴に、「子供がどう感じるかを基準にする」点があると言った。

子供がどう感じるかが基準、それはすなわち内容の是非を問わず、子供が嫌だと言えば悪、子供がうれしい楽しいと言えば善、という感じ方だ。そこに客観性はない。

以前からその手のことは何度か日記に書いてきた。

これらの日記の中で、例えば小学校に平気で遅刻していく子の話をした。もちろん個々の事情があると思うから、一人ひとりのことを取り上げて難じる気はない。気になっているのは、こうした遅刻等の状況を、親も先生も「仕方ない」で済まそうとしているのではないか、ということだ。

遅刻のハードルはずいぶん下がった。我々のころ、という言い方をするのは気が引けるがそれでもしておきたい。私だって、学校に遅刻したことはゼロではない。忘れ物に気づいていったん家に帰ったり、持っていくものを準備し忘れ、慌てて探しても見つからず、家を出るのが遅れたこともあった。クラスの皆が座って、担任の先生と朝の会(ホームルーム)をしている場所に「遅れてすみません」と言いながら入るのは、なんともいえない情けなさ、恥ずかしさ、そしてなぜか恐怖を感じた。この経験がいい意味でトラウマになり、今の「遅れてはいけない」という感覚に結びついていると言ってもいいと思う。ところが今は、テレビなどの情報から見えることしかないが、「『本人が』調子悪いから、遅くなっても仕方がない」、「『本人が』しんどいと言っているから今日は学校へ行かせない」が増えているように見える。

これはもしかしたら、多くの親が持っている感覚なのかもしれない。一つは「無理をさせたら子供がかわいそうだから」。これは一見美しい。子供でもなんでもいいが、人のことを「かわいそう」と思うとき、心は何となく晴れやかになる。気持ちよくなる。汚いなあと思うが、相手をあわれんだり、かわいそうと思いやったりしていると、その人に対して心の中では上に立てる(ような気がする)からだ。

だが、百歩譲って赤の他人相手にそういう感情を持つのなら仕方ないが、絶対に我が子供に対して持ってはいけないと思っている。なぜか。子供たちは、最初は「気を遣ってもらってる」と感じ取るかもしれないが、大きくなれば、それを「ワガママが通る」と悪い方に考える可能性が高い。誰だって朝起きて少し体がだるい日はある。そこで「しんどいなあ」と思いながら気合で動くか、「しんどい、学校行きたくない」と泣きつくか。その日常の積み重ねが、言い過ぎは承知だが人間の「器量」に結びつく。

もちろん、高熱が出ているのに無理やり行くようなことはあってはならない。しかし、この「高熱だったら」「病気だったら」というのが曲者で、健康と体調不良、そして病気の間には、無数のバリエーションがある。「学校に問題なく行ける」、「学校には行けるが体育はやめておく」、「学校には行けるが何かあったらすぐに保健室」、「学校に行かない方がいい」、「学校ではなく病院に行った方がいい」、といった具合だ。この無数のバリエーション、グラデーションと言ってもいいかもしれない、この峻別が親の中でできず、「体調悪いから休む」の選択肢がとられやすいのが現状だと思う。これは間違いなく、コロナ禍以来起こった傾向だ。私みたいな悪知恵野郎が子供だったら、「よし、『体調悪い』と言ったら親も『行きなさい!』と怒ってくることはないだろう」と悪い考えをいたすだろう。

これが、私の言う「子供がどう感じたかを基準にすること」だ。子供のわがままを肯定することとほぼ同義である。

まだ話は続けたい。

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