昨日は探求学習について書いたが、その一環でもう一つ考えていること。
学校の宿題にレポートを課されている科目が今は多い。特に理科や社会、数学などがそうなっているようだ。一生懸命書いているのを見ているときにふと声をかけてみた。
「そういえば学校の先生は、レポートの書き方って授業で教えてくれたん?」
帰ってきた答えはNOだった。返却の時などに「こうすればよかったね」などと言ってくれる先生もいらっしゃるようだが、それなら前もって書くときに必要なことを教えてあげればいいのに、と思わずにはいられなかった。
探求学習がうまくいってないというような言説が巷間語られるのは、結局のところその探求学習のやり方を先生が教え切れていないところにあるのではないかと思っている。そしてそれは先生の責任とは言い切れないとも思っている。
大学を出なくては先生にはなれない。だから先生たちは、大学在学中に研究を重ね、レポートをしこたま書いてこられたと思う。先生に探求をする力やレポートを書く力がないというわけではないのだ。問題なのはそれを教えきれるだけの時間も場所も、先生たちに対する教育の機会も不十分だということだ。そんな状態の中で探求学習をいきなりカリキュラムとして投げつけられると、私だって先生方と同じように対応せざるを得なくなると思う。
もっと言うなら、探求学習の本質のようなものもあいまいだ。いろんな人に話を聞く、書籍やインターネットで検索する、そういった学校以外の場所での積み重ねが探求学習のあるべき姿だと私は思っている。それがないまま、とりあえず探求学習をしました、という言い訳のようにレポートの宿題が投げつけられているように私には見える。先生だって、本当は本意ではないのかもしれないが、やらないわけにはいかないから、仕方なくレポートの宿題を投げつけざるを得ないのではないか問持っている。
そうなると被害を受けるのは(ここでは被害と言い切る)、どこまでいっても子供たちだ。探求の前提になる基礎知識や処理技能の類を鍛える時間は与えられず、生半可な状態で勉強を進めさせられ、そのうえで碌な前提知識もない中で探求学習を進めさせられ、そんなグラグラの知識の土台でレポートを書かされる。挙句の果てにそのレポートがABCで評価されて成績に反映されるのだからたまったものではなかろう。
昨日も言ったことだが、学校の授業を変えることはできない。だから私は、子供たちに知識と技能を積み重ねる場所をつくりたい。まわりまわって、探求学習に生きるくらいの知識と技能を身につけさせたい。

