それであなたは何をした?

中学生

ずいぶん以前に、「できない子は言い訳が多い」という趣旨の話を書いたことがある。

別に今もこの考えは変わっていないのだが、最近ではもう少し考えを深めていくようになっている。

どういうことかという前に、言い訳について今一度再定義したい。私は言い訳という言葉を、文字通りの「起こったことに対する言い分」だけとは考えておらず、「他人ないし自分以外の物事に対する責任の押し付け」、いわゆる他責とほぼ同じ意味で使っている。

こういうと、「いや、本当に周りが原因でうまくいかないことだってあるじゃないか」と思われるかもしれないし、それはもちろんあり得ることだと思っている。

私が言い訳を嫌うのは、言い訳あるいは他責思考が、その人の成長の阻害要因でしかないと思うからに他ならない。

例えば「あの先生は分かりにくいから、私は英語ができない、数学ができない」という言い分を考えてみたい。確かに先生もいろいろ、相性だってあるだろうし、問題教師と呼ばれるような人がいることだって否定はできない。私だって学生時代を振り返れば嫌いな先生だって少なからずいた。

ただ、ここからが考えの違いだと思っていて、ここで「あの先生のせいで英語がわからない」、という一言で終わらせてしまうと、それ以上は何もない。待っているのは単に英語ができない中学生や高校生が一人誕生するだけだ。

問題はここからで、「ではあなたは何をした?」という問いが生まれるのだ。

先生の授業が分かりにくいなら、勉強が得意そうな友達に聞いてみたりしたか。話だけ聞いてもわからないというなら、教科書とにらめっこしながらでも話を聞こうとしたか。何より前に、先生の話をわかろうとするための努力をしたのか。

八方あらゆる手を尽くして、それでもどうしてもわからない、周りの皆もわかっていない、そういう状況になって初めて、あの先生はダメだね、という答えが出せるのではないかと思う。

さらに考えは続く。

授業を聞いてわからない、という場面はいろいろな形で起こるだろう。「先生がわかりにくい」、「学級崩壊状態で授業がまともに行われていない」、ほかにも大小さまざまな要因はあろうかと思う。人が聞けば、「あなたは悪くない」と言ってくれるような状況はいくらでもあると思う。

それでも、そういう状況にあっても、自分にできることがないか考える子と、考えずに「自分は悪くないんですもの」と考え切ってしまう子には、明確な差が現れる。一つ一つの出来事は小さくても、それは年月を経てミルフィーユのように積み重なり、気づけば大きな差となって現れる。

だから私は、冗談事ではない真剣な場面では、言い方はいろいろあれど「自分は悪くない」という趣旨のことを言ってくると、「それであなたは何をした?」と聞くように心がけている。人のせいにする前に八方手を尽くしたのか、その心意気を問うようにしている。それがなければ、「じゃあ学校の先生よりもわかるように教えてあげよう♪」などと言って説明したって無駄だと思っているからだ。「崩壊してる授業の代わりに教えてあげよう!」などと意気込んでも意味はないと思っているからだ。

何やら厳しい話になってしまったが、どんな状況にあっても、自分に何ができたかを考える人間は必ず成長できると思っている。塾生でもはじめのうちは、よく私にこう言う趣旨のことを言い、「それで君はどうにかしようとしたわけ?」と、私に一蹴されてきた経験がある子は多い。「なんてこと言うんや、僕は悪くないのに」という顔をする子も少なくなかった。でも、付き合いが長くなればなるほど、そういうことは言わなくなってくる。私に一蹴されるからだけではなかろう。「自分でどうにかするんや」という気構えが身につくからだと思っている。「文句言っててもしょうがない」ということに気が付くからだと思っている。

入塾間もない子にとっては厳しい物言いになるのを、毎回こらえて言い続けているが、これが私なりの「強い意識の種まき」だと思っている。

もちろん、人に言うだけではだめ。私だって言い訳はしないぞという覚悟で毎日を送っていかねばならない。

におか塾は、尼崎市立花町の「勉強を鍛える学習塾」です。

お問い合わせはこちらまで

タイトルとURLをコピーしました