「〇〇買ってもらった」のように、人から(たいていは親だが)何かを「してもらった」ということをやたらと話す子がたまにいる。そして往々にしてそういう子ほど点の伸び、成績の伸びが良くない、という傾向が見えることが多い。
成績の悪い子の特徴をあげつらいたくて言うわけではないが、人から何かをしてもらえるというのは、当たり前のものではない。人から何かをしてもらえる、というのは普通はないこと。有るのが難しいことだ。だからみな、人から何かをしてもらったら「有り難う(ありがとう)」と礼を言うのではないのか。
人から何かをしてもらうのを当たり前と思っているのは問題だ。何が問題なのかというと、してもらうのが当たり前になった場合、してもらえないことが不服になるのだ。当たり前が裏切られたと感じるからだ。
多くの保護者の方なら当然ご存じだと思うが、社会では人が自分に何かをしてくれるというのは当然のことではない。むしろ何もしてくれないのが当たり前だろう。してもらえるのが当たり前と思って育った子供たちは、価値観が完全に逆転してしまった状態で世間に放り出されることになる。
話が大きくなりすぎるので勉強に戻すが、勉強であってもそうだ。塾生を見てみると、自分に何が足りないかを見定めてその部分の勉強を始めたり、学校で授業を聞いても「ここがイマイチ」と思ったら、普通にその部分の勉強を始めだす。ここで「何をすればいいですか」と聞いてくる子ならまだいい。人にはたらきかけて何かをしてもらおう、という姿勢が見える。もっともよくないパターンは「言われないから何もしない」だ。そういう子に限って往々にして「何をすればいいか言って『くれなかった』から」というだろう。
ここには歴然たる差が存在すると言っていいだろう。与えてもらうしか能がないの鳥のひなのような状態か、自分から取りに行く姿勢を見せるようになる自立に向けた状態かの差だ。そしてその差がいずれ大きな違いとなって現れる時が来る。ある子にとっては大学受験の時、ある子にとっては社会に出て働く時になるだろう。自分で動かなければ結果が得られないことを思い知らされる時期だ。
私は、塾内ではテスト前の押し迫った時期などのようなよほどのことがない限り、「あれをしろ、これをしろ」と塾生に命令しないようにしている。自分で授業の内容を思い返し、自分で理解不足の部分や伸ばしたい部分を見つけてほしいからだ。「いや、塾なんだから手取り足取りで見てあげるのが仕事でしょ、お金もらってるんでしょ?」と言われるかもしれないが、私がそれをするのは、子供たちが自分で動くすべを知らない間だけだ。
そして不思議なことに、そういう手をあまりかけないで済むようになった子たちこそ、成績を伸ばし始める。志望校に合格する。そういう子を何人も見てきた。「塾生だった弟が、お兄さんより大人なことを言うようになった」と話してくれた親御さんも過去にいる。
自分で動かなければ何も与えられない、そういう人間の基本動作のような部分が、このごろはずいぶん教えられなくなってきているように感じる。ひとつは親が何でも与えてしまうから。ひとつは学校などが何でも先回りして考えてあげてしまうから。ひとつは塾などが商売だからとなんでも考えてあげてしまうから。
なぜなら我が子に嫌われたくないから。通っている生徒たちに嫌われたくないから。自分の責任の範囲内(学校や塾なら卒業まで)さえトラブルなくやり過ごせたら、先に送れたらあとのことは自分とは関係ないから。
それでも社会は、知らない他人は、何もしてくれやしない。してくれるような親切な人もたまにはいるが、それは、ただただ「有り難い」存在として感謝しなければならない。当たり前に存在する人ではないのだ。
してくれないのは当たり前、逆に何でもしてあげるのは一見親切なように見えて、人間の成長の阻害要因と言い切ってもいいと思っている。「してもらえるのが普通」、子供たちがそう思っている間は子供たちは成長しない。大人になっても人のせいにしかできない人間が社会に放り出されるだけだと思っている。

