しばらく勉強の話が続きそうなのだが、教えすぎないを徹底しすぎたせいか、木曜が授業らしいことを全くしない1日になった。
妻が帰った後に話してくれていたが、「何も教えてなかったねえ」と一言。確かに、科目の話や知識の話を全くと言っていいほどしなかった。1日1時間設けている授業も、木曜はしなかった。
理由は二つある。ひとつは、予定していた話をやめることにしたから。それは学校の先取り分野だったのだが、先の話をするのは、今のタイミングではまずいと考えたから。
もうひとつ。こちらの方が大きくて、塾生たちが自分の課題に向かう体制ができていたから。今目の前にある理科の小テスト、国語の暗誦テスト、週末の模試の社会と、それぞれが自分の課題を抱えていて、これをどうにかしてやろうという意思があふれていたからだ。
これが整っているのなら、私からあえてその流れをぶった切って塾側の話をするということは必要あるまい。学校は主で塾はサブ。自分の課題が主で塾の進度はサブ。これでいいのだ。
昨日の日記の続きのようになるのだが、中学生相手に「学校が主で塾はサブだ」と言い続けるのは、学校授業をしっかり聞く姿勢、学校についていく、あるいは超えていこうとする姿勢を、中学生のうちに涵養したいという考えからだ。
大学受験を考える子は多いだろう。大学受験は学校授業の域を超える。超えないまでも、高校の授業は科目数が多い。中学生向けの塾のように、5教科をまんべんなく教えながら受験に対応、というわけにはなかなかいかないものでもある。塾の出番は、学校でカバーしきれない受験問題や、各大学の傾向に沿った対策に主軸が移る。
してみれば、高校生は「学校授業はしっかり聞いておく」ことが当然の前提としておかれることになる。これが、「中学生の時は塾に引っ張ってもらったから」ではたちどころに破綻する。であるから、高校に行ったときに、学校の勉強と受験のための勉強を区分けしてできるようになるためには、中学時代の学校授業の受け方が肝要だ。できる子は進学塾に行ってもそれができていたのだろうが、多くの子には難しかろう、というのが私の考えである。
これは、高校に行った後、そののちの人生の充実した活躍に向けての種まきのようなものである。何という大学に行ったかは、社会で問われる場面もあるかもしれないが、何高校に行ったかはあまり問われることはない。社会に出ていくための通過点でしかないからだ。高校の名前ではなく、いかにその高校生活を通過していくのか、それを充実したものにするための種まきをしなくてはいけない。
その心もて、これからも実りある学校生活へのお手伝いと、その先に芽吹く素晴らしい人生への種まきを、塾生にさせたいし、私も手伝いたい。