塾に限らない、学校にも限らない、職場でも家庭でもありとあらゆる場面で多いのが、「教えすぎ」という問題だ。
教えすぎがよくないのはなぜかというと、それはひとえに教わる側の考える機会を奪うことに他ならない。勉強でも仕事でもなんでもそうだが、身につく瞬間は、自分で考え、実践するときにある。その機会がないまま、考え方から答えまで一連をすべて教わってしまうと、聞く方だってバカではないのだから理解はする。ここが大きな落とし穴で、その場だけわかった状態では身についたとはいえず、かといって、わからない状態は解決してしまった(ように見える)ので、次につながらない
教えすぎの弊害をこれ以上書き連ねても仕方ないのでここにとどめておくが、なぜ教えすぎが発生するのか。それは教える側の、いや人間のと言っていいかもしれない、宿痾とも言うべき「人間は長じれば教えたがる」癖のようなものによると思っている。
そして、この癖のようなものが芽生える原因だが、それは教える側と教わる側の間にある大きな格差「こっちは知っているが相手は知らない」によるものと思っている。知っているからついつい言いたくなってしまう。これは何も教育に限るまい。アニメやゲームのネタバレを言いたくなってしまう心境も似たようなものではないかと思う。
ゲームでもそうなのだが、教えられるままに進めても、ゲームがうまくなるかどうかは別物だ。進め方は教えてもらいながらも、自分で工夫して何度も失敗して、その中からゲームの本質、プレイヤースキルのようなもの、そして何よりそのゲームが持つ醍醐味の如きものまで得られて初めて、ゲームには価値があるものだと私は思う。
勉強ならなおのこと。問題を解く、わからない、「教えて」、教えられるだけ、これでは何も身につかない。考えさせながら教えなければいけないし、その考えることを自分一人でさせられるように導いて初めて、教えるという仕事は完結する。
偉そうなことを言ったと我ながら思うが、私自身も「教えすぎ」の沼に落ち込みそうになる瞬間がある。その時ほど、心の中でしっかり踏みとどまりながら、「答えを教えることが教育ではない。答えに導かせることが教育だ。」と毎日毎時間、意識を固めなければならない。