アレクサンドラ構文を通じて、論理思考の訓練の重要性について考えてみたい。
以前、私は学力は思考訓練の量、回数に比例するという趣旨の話を日記にした。
アレクサンドラ構文のことにしてもそうなのだが、これは思考訓練、文を読んでその中の論理関係に気づく訓練をどれだけしてきたかによって、見つける速さも精度も上がるのだ。
もちろんほとんどの子は意図的に「論理を把握する」ために文を読んだりはしないだろう。小説であればストーリー、ニュース記事や新聞であればその情報がもっぱらの関心事であるのは間違いあるまい。
ただ、今の子にこの論理把握の力がついていない子が多い現象は、ひとえに文字情報、とりわけ文章から得られる情報に接する機会が激減しているからにほかなるまい。何度か言ってきたことであるが、今の子は軽々と動画や映像で情報を得る。動画の中にも文はあるじゃないか、と思うかもしれないが、動画の中にある文は量が圧倒的に少ない。しかもその文は動画、映像の内容の補足のためにある字幕である場合がほとんどだ。さすれば今の子は、論理関係の把握のほぼすべてを、動画の解説者のような他人に委ねてしまっているといってもいい。
するとどうなるか。答えは簡単で「自分で考え、自分で見つける手立てを育み増やすことができなくなる」のだ。勉強からは遠ざかるが、契約文書など、映像による補足がされない文書の読み込み不足で損を被るかもしれない。XなどのSNSで書かれている内容に、論理ではなく感情で反応してしまうような人種になるかもしれない。アジテーターのような人に刺激的で短いフレーズを投げかけられるととたんになびいて、気づけばおかしなところに連れていかれているかもしれない。
私は塾をしている身でこんなことを言ってはいけないかもしれないが、塾生の点数アップだけを考えて教えるつもりはない。もちろん点数アップはしてほしいし、するための勉強の指導はしているが、それだけではない。人生を生きるうえで大切な、「考える人間、考える強さを持った人間」になってほしいのだ。
今回のアレクサンドラ構文を契機に、私はもう一度、塾生たちに論理の大切さを伝えたい。それは点数アップ、成績アップにもつながり、ひいては人間の強さのアップにも大事な肝となるものと信じている。