悔し涙を流す塾生がたまにいる。問題ができなかった、小テストでふがいない出来だった、理由は様々だが、悔しい気持ちから目に涙を浮かべる光景だ。
悔しい気持ちというのは、次へ向かう原動力になる。これは否定しない。だから悔しい気持ちを持っている子には、つい次への期待をかけてしまうものだ。
ただ、これは経験上確信に近いものとして持っているのだが、悔しさというものはたいてい長続きしない。なぜか。それは皆の持つ悔しさというものが、その場の感情によってもたらされたものに過ぎないからだ。
例えば問題が解けなかった時のことを考えてみよう。そんな場面で私のような立場の人間から言われたりすると、悔しさの感情、情けなさの感情のようなものが惹起されるのだ。だからその場では悔しさの感情に支配され、ある者は涙を流し、ある者は顔を真っ赤にして悔しがるのだ。
ただ、そうして誰かに言われたりしたときのような「一時の感情」で現れた悔しさなんて長続きするわけがない。兄弟げんかのような場合を考えればわかるかと思うが、一時の怒りや不快でもたらされるような感情は、次の日には、下手すると数時間もたてばどこかへ消え去っている。いつまでも感情を引きずると心が持たないから当然だろう。このレベルでしか持てない悔しさだから長続きしないというのだ。
では、どんな口惜しさが長続きし、成長へのエネルギーになるのか。一概に言えないが、人に見せない悔しさこそ、長続きするのだと思う。それは、他人に惹起されたものであるかもしれない。でもそれをその他人に対して向けずに自分の中に蓄え、自分の中で整理し、自分の中でそれを晴らす行動につなげられて初めて、悔しさはエネルギーに変わると思う。
その悔しさを「消さない」ための努力、悔しさを力に変えるための自分への問いかけこそ、強くなるための大事な一つの精神のありようだと思う。
故人は悔しさがいとも簡単に消える感情であることを知っていたのであろう。それを消えないものとして刻み付ける方法として今も伝えられる言葉が「臥薪嘗胆」ではないか。