ものごとが、あるいは問題が「わかった」という瞬間、私はどうしても「おお、そうか、わかったか。」と素直に受け入れられないことが多い。それは「わかった」の意味に相違があるからだと思っている。
私は「わかった」ことは人に説明できると思っている。解答解説を読んだから、あるいは解説を聞いたからというだけで「わかった」となるのはあくまでもその場限りの表層的な理解に過ぎないと思っている。
話は単純。結局後日に類題を解く時、あるいはテストに臨むときに化けの皮が剥げるということだ。あの時あれほど「わかった」といった内容は忘却の彼方。理解不足を呈してひどい点を取ることでそれを如実に証明してしまう。
一方、人に説明できる、塾の場合は私にということになろうが、それができる者は、それができた分野や問題や単元はテストになっても問題なく仕上げてくる。
私の仕事は、この「わかった」を表層ではない本当の「わかった」、説明できるレベルの「わかった」にさせることにある。だから毎日の指導の中で、必ず説明を求める。自分の言葉で自分なりの理解を示させる。それができないなら何分でも待つこともある。それで授業時間がつぶれる可能性があっても、子の目の前の問題を理解し、考え、説明する作業の方が大事だと考える。
だから、問いかけに対して返事ができない、わからないのなら「わからない」とも言えず、せめて言葉にできる範囲まででも言葉にしようとする姿勢を見せずに黙りこくる態度は許されない。
勉強における大事な要素は、何も問題を解いたりするために手を動かすことだけにあるのではない。解説や教科書を読むことだけにあるのではない。言語を介した対話ができなくてはならない。
それができないうちは、勉強で大きな成果を上げることはできない。この成果を何としてでも塾生たちには手に入れてもらいたい。今日も対話を続けていきたい。