親「勉強した方がいいよ」
子「勉強なんかしたくない」
こんなバトルがあった場合、私はおおむね「子の方の勝ちが濃厚」と見る。
なぜそうなるのか。
これは「誰のためにする議論か」で決まると思っている。
「勉強した方がいいよ」は他人(子供であっても)のためにする主張。「勉強したくない」は自分のためにする主張だ。自分のためVS他人のためがぶつかり合うと、たいてい自分のためが勝つ。
他人のためには限度がある。自分のためなら、どんなに言われても自分を守るために言い返そうとする。心にもないことであっても言い返そうとする。一方で他人のためにする議論は、最終的に「じゃあもういいよ」とさじを投げてしまえる。向けられる力が違うのだ。
ここまでの話で何が言いたいか。
子供が「勉強したくない」という気持ちになってしまうと、もう手遅れだということ。
ここでいう手遅れとは、「他人の力で何とかできる段階を過ぎてしまった」という意味である。
では、「子供が勉強したくないと言っています」と悩む場合、どうすればいいのか。
方法は限られている。
まず大前提として、「この状況を絶対にひっくり返せる魔法のような手段は存在しない」ことを覚悟しなくてはいけない。
やる気を引き出す、モチベートする、といった触れ込みの塾や本は多いが、そういう「耳に心地いい言葉」に引きずられてもいけない。
周りの大人にできることは「待つ」こと。
子供が「自分のために」勉強する時期が来るのを待つしかない。
それは、人間関係がもたらすかもしれないし、受験などの人生でやってくるイベントがもたらすかもしれない。それはもはや「運」の要素が濃いのだが、それを待つしか手はない。
幸いと言っていいかもしれないが、多くの子供たちは、人生の中でそういうきっかけになりうる出来事に巡りあえる機会がやってくる。
ここでもう一つ大事なこと。
機会に備えて「援助の準備」だけはすること。
アドバイスを与える準備をすること、塾などを探し出す準備をすることなど、やってきた機会に対して、素早く援助の手を差し伸べられるようにだけするのだ。
言葉を準備する、お金を準備するなど、「自分のため」に子供が動き出そうとしたときに、タイミングよく手を差し伸べられるようにするのだ。
ただし、この援助は、求められないのにしてはいけない。
特に中学生以上の場合、求められる前に差し出す援助は、まかり間違うと「強制」と誤解されかねない。そんな事態になれば、もう修復は絶望的だ。
我慢が求められる辛い状態が続くかもしれないが、この「待つ」「援助の準備」をお願いしたい。