私は、子供たちに対する言葉咎めが結構多い。
そんな細かいことを、という顔をされることも一再ならずあるのだが、それでも言葉咎めをやめないのは、その言葉の細かい部分にこそ、その人の奥底にある気持ち、あるいは根性と言って良いかもしれない、がこもる可能性があると信じているからだ。
ずいぶん以前になるが、ある塾生が定期テストの返却後にこのようなことを言った。思っていたより点が伸びなかったのだろう。「頑張った『のに』、あまりできなかった」だそうだ。私は即座に言う。「頑張った『のに』はあかん。『のに』って言って良いのは他人だけやで。思ったほどできなかったのは頑張りが足りなかったからだ、と自分には言い聞かせられるようでないと子の先伸びていくことはないで。『のに』とか言ってるうちは、まだまだ足らんわ。」
我ながらひどいことを言うもんだ、とも思わなくはないのだが、この「のに」一つにも、点数が取れなかったのに自分は頑張った、という、過程と結果がマッチしていない現状を見据える心の欠如をどうしても私は見てしまうので、このようにたしなめてしまう。
かつてドイツの美術家たちの間で広まった言葉に、「神は細部に宿る」というものがある。アートの分野での言葉だが、日常にも通じるものだと思っている。たった一つの言葉、たった一文字や二文字の助詞の使い方ひとつで、何かしら言葉の後ろに隠れている心根の部分が透けて見えることがにもなりかねない。そういう意味で、私は「心は言葉の細部に宿る」と思っている。
細かいオッサンは今日も言葉の一つ一つに耳を傾け、前を向ける心の種まきを続ける。

