子のコントロールとしつけ

日々の考えあれこれ

以前にある塾生の親御さんにも話したことがあるのだが、親は子供をコントロールしようとしてはいけない、と私は常々考えている。もちろん親だけではない、私も塾生たちを自分の思い通りになるようにコントロールしようという意図での声掛けは行っていないつもりでいる。

コントロールというのはどういうことを指すのかというと難しいが、「毎日きちんと机に向かって勉強している姿」のように、何かしら自分自身が子供に対して求める姿に、子供たちの言葉や行動をあてはめさせようとすることだと、私は自分の解釈として思っている。

そうはいっても、「じゃあ子供に好きにさせとけって言うんかい?」と思われる向きもあるかもしれないが、それはコントロールとしつけを混同しているから起こる疑問だと思っている。私の言うところのコントロールもしつけも、どちらも「ある一定の方向に子供を向かせる」という意味では同じかもしれないが、そこには決定的な違いがある。それは、その一定の方向が「我」か「他」かであることの違いだと思っている。

「自分の思うような子」、「理想とする子」というのは、どこまで行っても自我でしかない。極端な言い方は承知の上だが、自分のエゴを子供にぶつけるということに他ならない。その自我やエゴの部分にかなうよう、子供の行動を変えさせるために行う叱責や声掛けを私はコントロールと呼んでいる。

一方でしつけというのは自我ではない。「世間様に対して恥ずかしくない」ように、「人様に迷惑をかけない」ようにという、自分ではない他者あるいは社会へ向けて子供の欲望や行動を子供が自分で抑制、制御できるようにさせよう、とすることにある。

私はよく、「強い子」を育てたい、「強い心」の種まきを続けたい、ということが多いが、それは自我であってはならないと思っている。強い子になって世間に出ていってほしいし、強い心をもって物事に取り組めるようになってほしいとは思っている。そのうえで世間に出て何をするか、どんな物事に取り組んでいくのか、それは正直なところその人の人生だから、私にはあずかり知らぬことと言える。(犯罪や、人に迷惑をかけることにだけは手を染めないでくださいね)

ただ、どんな道に行こうと決めたとしても、最低限共通して持っておいてもらいたい心の部分、共通して持ってもらいたい行動の基本、そういったものだけ教えたい、伝えたいと思っているだけに過ぎないのだ。ベルトコンベアのように子供を受け入れ、送り出し、その間お金がもらえて飯が食える、そういうことだけは死んでも嫌なので、そこにだけは自我を貫かせてもらいたい。

どんな道に進むことになっても、世間様に対して恥ずかしい人間にならないように、私も親御さんと一緒になって、文字通り子供たちを教え育みたい、と心の底から思い、今日も今日とて「強い心」の種まきを続ける。

におか塾は、尼崎市立花町の「勉強を鍛える学習塾」です。

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