勉強の仕方、という話についてはいつも否定的なスタンスをとっている私ではあるが、じゃあ勉強の仕方の話は塾ではしないのか、と言われればそんなことはもちろんない。
先日、英語で単語の意味を間違えた高校生相手にこんな話をした。
「俺が教えてる間以外にも君は受験勉強をせんとあかん。そういう時に、参考書を見たり問題を解いたりしながら、答えを確認していくやろう。その時に、全訳を見て『ああ、こういう意味か』だけで終わっても何の意味もない。どの単語がどういう意味なのか、それは文の構造を取れれば参照できる。今間違えた答えを言ったのは、単に『間違えました』だけで済むもんやない。文の構造がわかってなかったという、致命的なミスが原因やで。この先、参考書や問題集や過去問でも全訳を見たときに同じ間違いをするで。答えを見るときも、全訳を見るときも、最初に解くときに自分が考えた内容をぶつけるように確認せなあかん。訳し方、文の構造、日本語への適切な置き換え方のことやで。そこで間違いに気づいて考え直して、その作業を何度も繰り返して力を練り上げていかないと、無駄なことを繰り返すだけやぞ。」
勉強の仕方というのはこういう話だ。「じゃあ、初めからそのやり方を教えてよ」と言われるかもしれないが、それは何の意味もない。勉強のやり方をつかみたいなら、まずは勉強をしなければいけないのだ。そのうえで自分のやっていることのまずさや、効率の悪さなどに気づいて改善して練り上げていくものなのだ。自分一人で気づくのは難しいから、そういう時に効果的に指摘して考え直させる手助けとして、私のようなオッサンがいるのだ。
何もないまま、「勉強のやり方がわからない」というのは、やや言葉が悪いが、怠慢あるいはずるい考えだと思っている。勉強したくないくせに、そのことを直接伝えて怒られるのが嫌だから「勉強の仕方がわからない」、初めから努力するつもりはなく、おいしいところだけ得ようとするこずるい根性から「勉強の仕方を教えてよ」と言われても、私は聞く耳は持たない。まずは努力して、自分の力だけで到達できない苦しみや口惜しさを噛みしめてから、次への一歩として「勉強の仕方」となるのであれば、私は歓迎したい。
今、我が子が「勉強の仕方がわからない」と言っているのに悩む親御さんへ。それまでのお子さんの様子をよく見てあげてほしい。大して努力もしていないのに言っているのなら、それはただの怠慢だから耳を傾ける必要はない。「大して何もしてへんくせに何言っとるん?甘えるな!」で終わらせればいい。必死に自分なりに努力して、それでも目標に届かず苦しんでいるようなら、私たちのような外部の指導者の出番だと思っている。

