子には楽しさより苦労を伝えたい

中学生

この塾を開いてからは経験がないのだが、勤めていた時代などはたまに、「勉強の楽しさを教えてあげてほしい」という親御さんがいらしたものだった。

そもそもだが、進学であったり就職であったり、スポーツなら試合に出られたり、といった場面では、何かしらの苦しみや努力を必要とされるのが通常だろう。何が原因なのかよくは知らないが、自身では嫌なことを苦労して乗り越えて、今を築き上げたはずなのに、我が子になると急に「楽しく」と言ってこられるのだ。

自分がしたような苦労をさせたくない、というようなことをおっしゃる方もおられたが、その「苦労」というのは、例えば姑による嫁いびり(昭和か)のような、あるいは戦後などの貧しい家が多かった事情のように、本人の努力だけではどうにもならない苦労のことを指すのであって、自分の進むべき道や、やりたいことに向かうための苦労は、むしろさせるべき苦労だろう。勉強はその中でも最たるものだと私は思っている。

我が子可愛さというのはよくわかっているつもりだ。その可愛さというものを勘違いしてはいけない。もしも我が子に苦労をさせたくないという純然たる気持ちがあるのなら、早いうちに努力させておくに如くはない。「楽しい楽しい」で大きくなっては、かえって大きくなってからいきなりやってくるヘビー級の困難に耐えられまい。そんなことになるくらいなら、早いうちから少しずつ苦労を味わい、それを乗り越える経験をさせるほうが、よほど子供のためにはなると思う。

苦労と努力、という話でここまできたが、大事なのはもう一つ。勉強は楽しくなんかなりはしない、ということ。一生懸命練習してうまくなるからスポーツは楽しいのだ。うまくなるまでは苦労の連続だと思う。勉強も同じ。勉強の苦労の先にあるのが、大学などのいわゆるアカデミズムの世界、学問の世界だ。そこは勉強とは違う、というよりもむしろ勉強というハードルを乗り越えてきたものだけがたどり着く世界だといっていい。

だから私は塾生には苦労を強いる。それは単に指導が厳しいとか、宿題が多いというような表層の話ではない。勉強を道具として、先に豊かな生活(経済的な話ではない)を見据えての苦労を強いる。考えさせ、頭を使わせ、自分の口で説明もさせる。大変な重圧だと思う。

そのほうが、「勉強の楽しさ」とかいう「?」なことを無理やり伝えるよりはるかに有意義だと信じている。

におか塾は、尼崎市立花町の「勉強を鍛える学習塾」です。

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