この1週間(夏休みの2週目)は、授業の意義を考えさせられる時間となった。
授業というのは、想像通りの黒板やホワイトボードの前で話をする形式のことを言うのだが、どうもこの授業というのがしっくりこないのだ。
授業の意義を否定するつもりはない。授業なんていらないと言っているわけではない。授業を聞いている塾生の様子を見ていると、なんとも拭いがたい感覚に襲われるのだ。
それは、聞いているよりも手を動かしたい、という気配のようなものだ。こちらが説明するより前に例題を解きにかかっている子がいる。それは私の話が無視されている、というようなネガティブなものではなく、むしろ「早く先が見たい、知りたい」あるいは「もっと手を動かしたい」とでもいうような、意欲のようなものの発露のように思えてならないのだ。
とすると、授業の意義はいったい何なのか、という疑問に至る。「いや、そういう子でも満足いくような授業をしろよ」と言う自分もいる。ただしそれをすると、意欲や能力が及ばない子への過度な負担になる。だからといって、個別指導塾のような接し方は私はしたくない。私の目指す勉強道場の姿から外れてしまう。
授業をどのような位置に据えるべきか。いっそなくしてしまえ、という考えも頭をもたげてくるが、意義を全否定しているわけではないし、必要な場面では「授業」というスタイルに頼りたい。
かくして自問自答と試行錯誤とを繰り返し、あるべき指導スタイルの模索は続く。おそらく私の中に「この子たちを何とかしてあげたい」という意欲が存し続ける限り。