狂狷(きょうけん)という言葉がある。孔子の言葉を集めた、かの「論語」の中に出てくるのだが、孔子はこの中で、このような趣旨のことを話している。論語を訳したわけではなく、ダイジェストの様な言い方になる。
孔子が言う。「最も理想的な姿は中庸(ちゅうよう)、つまり何にも偏った考えや行動をしないことにあるが、このような姿でいるのは困難、あるいは不可能だと思う、そのくらい大変なことだよ。」
そこで弟子の一人がこう質問する。「では、中庸が無理なら次にどのような姿がいいでしょうか。」
孔子は答える。「狂狷の徒がいいでしょう。狂とは進んで取り、狷とは為さない所がある者である。」
狂というのは、今の人が字だけ見れば、「狂っている」という連想からネガティブなイメージを持つかもしれないが、もともと狂という字は、手に負えない犬のことを指している。散歩中のワンちゃんが、興味を持ったものやすれ違った別の犬に向かって、猛烈に吠え掛かって飼い主を引きずらんばかりの勢いになる姿を見かけることがあると思うが、あの姿からの連想で、興味を持ったものなどに猛烈に向かうことに真意がある。人間でいえば、新しいものやいいと思うものに対して進んで取りに行く、進取の気風を指す。
一方の狷だが、これは当用漢字で使われないため、意味が分からない人が多いと思う。為さないところがあるといわれてもチンプンカンプンかもしれないが、簡単に言えば「やらないと決めたことは絶対にしない」という心の持ちよう、ちょうど狂の反対の姿勢と言っていいかもしれない。
真ん中にとどまるのが無理なら思い切って両端に振れろ、とはいかにも人間洞察に極めて優れた孔子らしいと思うが、私もこの姿でありたいと思っている。中庸なんてとても無理だ。
塾に置き換えれば、「これがいい」と思ったら、すぐにでも取り入れてみたいし、新しい教材なんかが出てくれば、すぐに見に行って、取り入れようとする。孔子の言うところの狂とは程遠いが、この姿勢は持ちたい。一方で、「こうすれば効率が良くなるよ」といくら言われても、映像授業の類やAIを使ったシステムのようなものには今は一切手は出さない。でも、たぶん「いい」と判断したら、その時が来れば一も二もなく飛びつくとは思っている。
ここでいう、「為さざるところ」というのは、単に好悪によるものであってはならない。あるいは快不快によるものであってもならない。就中金銭その他の欲の如きものであってもならない。私如きの拙い人生経験であっても、それでも自分の中で培い続けた人生観、善悪観、倫理観その他に照らし合わせたものでなければならない。
普段は子供たちに勉強を教える立場ではあるが、その一方で私自身の人生修行もまだまだ続く。おそらく死ぬ直前まで。