逆からの理解、と先週日記に書いたのだが、それを可能にする子とできない子の差とは何か、という話について。
先に結論を言ってしまうと、「言語化」「論理性」の二言に尽きる。知識や事項、数学なら解法について、言葉で、順を追って、簡潔に要点を押さえて、「言語で」「論理的に」整理できるかどうかである。
ではこれをどうやって身につけるか、という話になるのだが、ここに至るにはいくつか関門があると思っている。
まずは小さいころ。どれだけ親子でも先生でも誰でもいいが会話をしてきたか。その会話により、聞く力、話す力、それらを通じて言葉を耳と口で使う力を涵養できたかがものを言う。
次にもう少し大きくなってから。ここでは本を読むことと、引き続き会話をしてきたかがものを言う。本を読むというのは、読解力に資するところもあるかもしれないが、それよりも何よりも、それなりに賢い他人、言葉を生業にする他人を通じた言語感覚の習得が大きい。加えて語彙力の習得も大きい。
そしてさらに大きくなった時。小学校高学年以降ぐらいか。いよいよそれら言葉の運用能力と語彙力を駆使して「自分の頭で考え、自分の言葉で整理し、自分の言葉で相手に伝える」段階を迎える。
何やら壮大な話だが、これらを経てやっと論理思考はなる。逆からの理解もなる。
では中学生になってからでは手遅れかと思われるかもしれないが、そうとは言い切れない。単に論理思考の機会を経なかっただけであれば、今からでもその力を養う機会はあるかもしれない。
ただ、それは簡単なものではない。何しろ言語の運用の仕方や語彙力など、今までの遅れを取り戻さなければならないのだ。相当以上の労力がかかる。さらに、ある程度成長してしまうと、脳も柔軟な変化が難しくなる。新しい考え方や新しい使い方を強いるのだから、脳にも心にも大きな負荷、ストレスがかかる。自分の今までの自然に逆らうことをしなくてはいけないのだから。
でも、その覚悟があるなら伸ばす余地はあるかもしれない。ただそれはいばらの道だ。歩む覚悟ある子であれば、とことん寄り添いたい。