曲なれば即ち全

中学生

昨日、入塾面談にお越しいただいたお母さんにお話しした言葉だが、「曲なれば即ち全」という言葉がある。訓読すると「曲なれば即ち全し」と言うのだろうが、リズムがいいので全し(まったし)ではなく全(ぜん)と読むことにしている。

これは中国の思想家、老子の言葉だ。解釈はいろいろあるのだろうが、私は「曲がっている(欠点がある)方が完全になる(完成する)」と言うほどの意味で使うことにしている。お母さんの言うとおり、先生の言うとおり、まっすぐに育ってほしいと思うのは人情だとは思うが、期待にこたえ続け、まっすぐに伸び続けていくと、いつか大きくなった時、社会に出た時などに失敗や挫折があったときに心配だ。まっすぐであればあるほど、壁にぶつかると曲がることもできずに折れてしまう。

私はこの曲、曲がっていることを二種類に解釈している。ひとつは欠点があること。欠点があること自体はどうしてもネガティブにとらえたくなるかもしれないが、欠点がある、できないことがある人間には、「できない人間」の気持ちがわかる。やさしくなれる。強さだけで生きていくと、強い分得をすることは多かろうが、弱い人間がいることに対する理解が浅くなる。欠点だらけなのは問題かもしれないが、一つくらい欠点がある方が、人間に対する理解は深まるはずだ。

もうひとつは、曲がっても折れないしなやかさという意味だ。まっすぐな鉄の棒よりも、しなやかな竹のような姿こそ大切だと思っているのだ。上で話した挫折や失敗は、必ず上からの圧力となって表れる。曲がる力を持っていなければ、棒は避けるし折れるし、砕け散る。竹のようなしなやかさを持っていれば、いくら曲がっても折れない。曲がっているうちに圧力をしのげれば、また元に戻れる。もちろん圧力をかけ続ければいずれは折れるのかもしれないが、圧力をそのまま受け止めるしかないまっすぐ差よりも、曲がってでも耐えられるしなやかさこそ、私の思う「強さ」ではないかと考えるのである。

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