何やら日記のくせにシリーズ化してしまっているが、今日は変えられないものを受け入れることについて考えたい。
昨日は変えられないものを「過去と他人」だと自分の中で結論付けた。
最初の話に戻るが、テレフォン人生相談における加藤先生の言葉は「変えられないことは『そのまま』受け入れましょう」だった。ただこの「そのまま」受け入れることについては少し留保をしたい。
変えられないものを過去とした場合、文字通りそのまま受け入れられる過去とそうでないものがあるに違いない。例えばつらく悲しい思い出やトラウマ、取り返しのつかぬ過去の過ちなんて、簡単にそのまま受け入れることなぞできやしないのではないか。
私は「そのまま」受け入れることに対して一歩引いて考え、「意味付け」の仕方を考えることで過去の受け入れをすべきではないかと思っている。
なぜそう思うのか。先に挙げたつらい過去はともかく、テストの点数や入試の結果の「よくなかった」という過去について、これをそのまま受け入れると「ま、しょうがないか」というようなある種の諦観あるいは無関心を招きやしないか。あるいは自分以外の原因でうまくいかなかった過去について「あいつが悪い」「あのことがなければ・・・」のような他責思考につながりやしないかと危惧するのだ。
だから私は、過去については「反省」「自責」など、のちの成長或いは前進につながる意味付けを施したうえで受け入れてみるべきだと考えている。ここまでは悪い過去とでも呼ぶべきものについてばかり話してきたが、うれしい思い出や楽しい過去にしたってそうだ。次も同じ思いができるようにする、という意味付けを施してさらなる前進につなげるような考え方を伴って受け入れたほうがいいと思っている。「ああ、楽しかった、よかった」だけで過ぎさせるのはもったいない気がするがどうか。
もう一つの変えられないもの「他人」だが、これはある意味どうしようもないことだ。自分ではないのだから、受け入れざるをえまい。その他人が自分に迷惑や損害を与える場合はさすがにいろいろな法的なものも含めた措置などを考えなければならないかもしれない。だが、わが子の人生や教え子の人生のような教育的な観点で見た場合であっても、「変えられるのは本人だけだから」という一歩引いた眼で見て半ばは受け入れつつ、半ばは教育を施すために言葉がけや指導をする、という形で「そのまま」ではない受け入れ方を考えなければならないのではないかと思う。
私もその目線に立って、塾生の過去にも塾生の人生或いは勉強への意志にも、半ばは受け入れ、半ばは指導で改善を促す、でも最終的に「変えられるのは本人のみ」という目線だけは外さずに持ち続けたい。