昨日は教材展示会にお邪魔した。
いよいよ最終決定へ向けての大締めになるのだが、帰りの電車で考えた。
それは教える側のエゴというもの。
エゴイズム、エゴと言えば「わがまま、自分勝手」とでもいうべきニオイをいささか感じさせるが、私の中にあるエゴとは、「考え方を含めた自分への執着」とでもいうべきものと思っている。夏目漱石はエゴイズムを指して「我執」と訳したが、まさにこれだ。
では私が闘うべきエゴとは一体何か。
教材に限らないのだが、教える側というのはついつい自分の理想を教材やカリキュラムなどに仮託してしまう。「もっと難しい問題を」「もっとレベルの高い内容を」などと考えてしまうのだ。
その間は、変な言い方だが「気持ちいい」のだ。理想を頭の中で膨らませているのだから。ただ、その時、私の頭の中からは、塾生たちの顔、塾生たちのレベル、塾生たちの目指す道、といった最も大事な塾生一人ひとりの存在が消し飛んでしまうのだ。
その瞬間こそ、私の中なる「教える側のエゴ」が全開しているのだ。これではいけない、とはたと思い返し、塾生を頭に浮かべた構想に思いを戻すのである。
この間こそ、私の中なる理想という名のエゴと、何より大事な塾生一人ひとりに対する思いとの相克の時なのだ。そして、最後には塾生一人ひとりの方に軍配を上げさせねばならぬ。
ではそんな理想なんかなくしてしまえ、と言えば一発なのかもしれないが、一方でエゴではない理想は捨ててはならないとも思っている。そしてその理想と現在目の前にある課題とは闘いを続けねばならない。
そして、「理想だけではいけない、ただ目の前の現実に対して完全な妥協をするのもいけない」という、ある種永遠の課題ともいうべきものと今日も闘いながら、教材選定と指導体制の見直しは大詰めを迎える。