学校授業の復習に重点を置く指導に切り替えてしばらくたつが、あることに気づいた。
多くの生徒たちが「直近で学校で習ったことを覚えていない」という現実だ。
思わず「学校で何聞いてきたん?寝てたん?」と言ってしまいそうになる。もしかしたら口走ってしまったかもしれない。
最近はあらゆるコンテンツがデジタル化、データ化された。映像授業でもYouTubeでも何でもそうだ。見逃せば後でいつでも見直せる。今一時に集中力を傾ける必要が薄れているのだ。スポーツであればまだ「今一時」という場面は多いが、勉強となるとこの「後で見直せる」が大きな存在感を発揮する。
そのせいか、「一期一会」の精神で授業を聞く習慣が、かつての中間層と呼ぶべき成績の子たちから失われたような気がする。学校でも塾でもどこでもいいのだが、「授業」という場に「この一回で聞き漏らさず自分のものにするぞ」という気持ちを持たなくなってしまっているのではないか、という危機感だ。
いつでも誰かに聞ける、映像コンテンツなどのように「まあいいか、後でもう一回見たら」と考える、このような心構えで聞いていれば、永久に授業内容を自分のものにはできない。
「今の子はいいよな、後で何回でも授業を見直せる、聞き直せるなんて。」と年上世代からすれば思うかもしれないが、その実全くありがたくなんかないのだ。
なぜかというと、あらゆるデバイスなどを「うらやましい」と思う世代には共通点があるのだ。それは、「自分たちのころにはなかった」という事実だ。今使っている子たちは違う。生まれた時から、あるいは入学した時から、それらの道具やコンテンツが当たり前のように眼前に存在するのだ。「昔はなかった」と「あるのが当たり前」の間には埋めがたい溝がある。
まだがんぜないころからそれらをそれなりに使いこなしていると、使うことが当たり前になる。それらがあることが当たり前になる。便利さが当然のように存在するのだから、その便利さを使って何悪かろう、と思うのも無理はない。あらゆる物事に取り組むときに、必ず「まあいいか、後でまたできるし」と考える。
だからこそ、この令和の今、私は厳然と言い放つ。「二度と言わへんで。」と。「二度と言わへんで。今の説明で分かったんやな。何も質問がないんやったら、もう『全部わかってる』という風にこっちは思って進むで。」と。
それでも質問の声はない。「もう一回言ってほしい。」という一言もない。武士に二言はないので、知っている前提で、イジワルにも先に話を進めてやる。当然、前の内容なんてわかっちゃいないのだからちんぷんかんぷんだ。「ほら見ろ。」と後で大目玉を食うことになる。
もし自分自身に(あるいはわが子に)、こういった症状(とあえて言う)に心当たりがあるなら、あなた(あるいはお子さん)はかなり厳しい。赤信号寸前だ。
「どうせ後でまた聞けばいいや」に頭も心も支配されている。後で見直せる便利さに毒されているから。
古人は「機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。(「荘子」)」と言った。