2024年11月9日 無限の可能性という名の蜃気楼

中学生

子供には(あるいは人間には)無限大の可能性がある、とはよく使われてきた表現だ。

だが、その無限大に実際にお目にかかれたことは本当に少ない。

先に言っておくが、私は子供たちの「無限大の可能性」は否定しない。

ただその一方で、こうも考えている。

私の持論で、「無限大イコールゼロ」という考えだ。

無限大の可能性は確かに存在する。将来のすがたは誰にも描けないからだ。会社員になっているのか公務員になっているのか。お店を始めるようになるのか会社を起業するのか。プロスポーツ選手になるのか芸能人になるのか。インフルエンサーになるのかギャンブラーになるのか。こんなもの、今の段階で分かるわけがない。すなわち未来の可能性は無限大なのだ。

しかしながら、人間が選べる選択肢は一つだけ。体も人生も一つしかないし、時間の流れも一つしかないのだから。可能性は無限にあっても、人間はその中から一つを選び取らねばならぬ。選び取るだけではいけない。選び取ったその先に、その道を究める、成功するために努力を弛まず続けねばならぬ。

ここで一つ困った問題がある。確かに目の前にある無限大の可能性を前にして、「選び取る」「努力する」ができるか否か、という問題だ。可能性を語るだけ、可能性を信じるだけで、「可能性」の中に逃げ込み、その先にある「決断と行動」という段階に足を踏み入れられない問題だ。

未来の可能性という不確実極まる観念に逃げ込んで、「いつかは頑張る」「今はまだ本気出してないだけ(こんなタイトルの映画があったように思う)」という情けないこと至極な態度になる者。選び取ったとしても「楽しそう」「楽そう」「好き」といった、極めて好悪に依存した選択しかできず、その先にある努力の存在を無視したり、あるいは努力に対する無知によったりすることで簡単にその選択を捨て、再び不確実な未来の可能性に逃げ込む者。繰り返すが情けないことこの上ない。

無限大と言えば聞こえはいい。ただ一方で、無限大を無限大のまま放っておき、その中に安住する脆弱な思考でいる以上、無限大の可能性は、可能性ゼロと何ら変わるところはない。

改めて言う。可能性は無限にある。だがその中にある「自分にとっての輝かしい姿」をつかみ取れる気持ちを持たなければならぬ。そうでなければ、無限の可能性なんてただの蜃気楼に過ぎない。

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