2024年11月1日 勉強「道」

中学生

昨日の日記で、「勉強道場」という語を使った。

我ながらしっくりくる言い方だな、としばらくたった今でも思う。

勉強に限らず、なんでもそうなのだが、物事は極めようとすると「道」となる。

宗教としての仏教は、修行ののち極めんとすれば「仏道」となる。

武器や肉体を用いて相手と戦う技術は「武術」だが、その道の蘊奥(うんおう)を極めんとすれば、それは「武道」となる。剣術は剣道へ、柔術は柔道へ、弓術は弓道へ。

武道に限らない。字をきれいに書く技術は習字ないし書写だが、その技術の先を極めんとするのは「書道」であるし、生け花は華道であり、茶の湯は茶道だ。

道の名を冠しないものであってもいい。野球もサッカーもテニスも卓球も、水泳も体操もフィギュアスケートも、調理も製菓も美容も、技術の習得の先にあるのは、「道(どう)」にほかなるまい。

道(どう)とは何なのか、という話を言い出すのは、ここでは哲学的な話をする必要もなかろうと思い、避けておく。

ただ一点、「道(どう)」の中にあるのは精神的な修練、精神的な修養であるのは間違いあるまい。

ただホームランが打てればいいのか、ただ速く走れればいいのか、ただきれいに字が書ければいいのか。

その先にある、ある種の精神的な修練、もっと言うならばある種の「人間の完成、人格の完成」が「道」の本質であるに違いない。

現に、アスリートにみられやすいが、道極まるところまでいく人は、たいてい人格者だ。今であれば大リーガーの大谷翔平選手が最もわかりやすい好例といえよう。

翻って勉強の話。

勉強をわかりやすく教えることが大事なのはわかっているが、勉強を通じた人格完成、すなわち「勉強道」とでもいうべきものもあって然るべきではないか。

そこにあるのは、「単に問題が解ければいい」「単に高得点が取れればいい」のような表層的なお勉強ではない。「人間の強さ」の習得、人格の完成のための修行という側面だ。いやでも自分の弱さに向き合わされる。他の点数がいい人間と比べて落ち込む瞬間がある。立てた目標に届かない悔しさがある。少々忙しかろうが疲れていようが、「やる」と決めたことを「絶対にやる」強さが求められる。暗記のような、人によっては苦痛と感ずるものを乗り越える強さも求められる。自分の甘えたい気持ちを「自分で」叩き潰す強さも必要になる。

その先にこそ、私が理想とする「強い人間、完成された人格」があるはずだ。

その強ささえ身に着けば、極言すれば得点や偏差値はどうでもいい。そんなもの、個人の才能に依存する部分が大きいのだから。それよりも、「ここで勉強したおかげで強くなれた」と言ってくれる子が一人でも育ってほしい。

大げさに過ぎるかもしれないが、それが私の生きがいと思っている。私も勉強を教える「道」をひた進みたい。いや、進む。

道を究めんと日々精進し励む者を、人は「求道者」と呼ぶ。

求む求道者。

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