先日来、生徒たちと接している中で意識している言葉がある。「自分の言葉」だ。
自分の言葉というのは、誰かからの借り物でもない、自分の思いを、自分の脳みそという機械を通して他人に向けて発する言葉だ。これを持っている子供たちはずいぶん少なくなったように感じる。
とかく最近はいろんな人たちが優しすぎる。両親、学校の先生、塾の先生などなど。黙っていると目の前にヒントめいたものを用意して「言わせよう」としてしまう。私も恥ずかしい話だがこんな風に接してしまった過去はある。その結果、子供たちは受け身になる。黙っていればいずれ優しい大人たちはヒントをくれることを知ってしまっているのだから。鳥の巣にいる雛のように、親鳥が餌を持ってきてくれるのを待っているだけの状態だ。鳥であれば別にそれでもいい。雛は自分で飛べないのだから餌なんて取れない。
ただ、人間は話は別。小学生ならともかく、中学生にも高校生にもなって「自分の言葉」を持とうとしないのは困る。周りの人が優しくしてくれるから、学生である間はそれでやり過ごせても、社会に出た瞬間容赦なく踏みにじられる。社会は自分から手に入れようとしないと何も得られない環境だからだ。得られないだけならまだいい。他人(同僚、上司、先輩、取引先などなど)から容赦ない非難にさらされる場でもあるからだ。
その反省から、今はできる限り生徒たちの「自分の言葉」を待つように心がけている。
自分の言葉というのは結構難しい。自分で自分の中身、奥底を見つめられないと発せられない言葉だからだ。自分を見つめるのはつらい作業だ。どうしたって自分の弱い部分、恥ずかしい部分を直視せざるを得ないからだ。
弱点だけではない。自分は何者なのか、どうなりたいのかを深くまで考えないといけない。そういった自分にまつわる何もかもを見据えたうえでの自分の言葉を待っている。それが見えた時、大げさに言えば人間のレベルが2ランクくらいアップすると思っている。自分の言葉で自分を見据えられたら、そこから自分の殻は破っていける。
うれしいことに、最近はこの「自分の言葉」を持ち始めた塾生が増えてきたように感じている。今はまだつたない言葉であるかもしれない。でも0か1かではそのあとが全く違う。0が1になったその瞬間、生徒たちの強く生きる未来が垣間見えたような気がして胸が躍る。最初の扉を開けられたなら、その力で次の扉も開けられる。勉強の話じゃないな、と思われるかもしれないが、結局そういう子ほど成績は上がることが多い。