昨日、思考訓練の量、回数が学力を決めると書いた。
では、思考訓練の量をどうやって増やそうか、となると、簡単な話ではない。
スポーツのように「トレーニング量を増やす、練習時間を増やす(本当はそんな単純な話ではないとは思うが)」のようにはいかないのが、この思考訓練という奴だからだ。
ただ、スポーツと異なる点が一つある。
思考訓練の場所は、日々の生活の中でいたるところに転がっている、という違いだ。
プール以外で水泳はできないし、広い場所がないと野球やサッカーの練習ができないのとは違う。
本当にいたるところに、思考訓練の種は転がっているのだ。
要はその種を放っておいて見過ごすか、その種を思考訓練に変えるかの違いが、思考力の差を分けるのだ。
では、その思考訓練の種を訓練の場に変えられるか変えられないか、それを分けるものは何か。
それが「知的好奇心」「知的探求心」と呼ばれる心だと思う。
わかりやすい言い方にすると、「なぜ?」と考えられる心だと思う。
ただ、何もない子供たちに「なぜ?」と考える心を持たせるのは難しい。
そこで大人から少しだけパスを送ってあげよう。
「なんで〇〇なんかなあ?」「なんでこんなことできるんかなあ?」など、謎を投げかけてあげるのだ。
これに子供が食いつけばしめたもの。
できるだけ答えはすぐに教えずに考えさせてあげるのだ。
こんな細かいことの繰り返しが、いいトレーニング材料になると思う。
反抗期真っただ中に入って「大人の言うことに耳を貸さなくなる」と手遅れだが、やってみる価値はあるのではなかろうか。
わからないこと、すなわち考える材料は次から次へとやってくるし、そのたびごとに思考力、ひいては学力は鍛えられるのだから。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、こんな一節がある。
我らいかに生くべきか。ー未知の世界を少し残しておくこと。(詩人である室生犀星の言葉だそうだ)