私はあまりドラマを見ない。
定期的に見るのは朝ドラと大河ドラマのみ。
あとはたまに気になるものがあれば見る程度だ。
この朝ドラと大河ドラマは、過去作のアンコール放送や再放送がよくある(特に朝ドラ)。
そんな折に昔の作品と最近の作品をよく比べながら見るのだが、気になることがあった。
それは作品の質というより、ドラマそのものの変遷といってもいいかもしれない。
それは例えばジェンダーやダイバーシティとかいうような表層的なテーマやドラマの題材のことではない。
ドラマの中身そのものである。
最初は単に「昔はよかった」の類の懐古趣味のなせる業かとも思ったが、それとも違うことに気づいた。
セリフが多すぎるのだ。
登場人物の気持ちや場の状況など、とにかく何でもセリフで説明しすぎる。
ドラマの場合、役者の表情やセリフの間、立ち位置や距離感、BGMなどが、セリフを通じた言葉以上に状況や心情を説明している。
それを読み取り、感動したりするのが見る側の仕事だと思う。
これはドラマ制作が劣化したからとは言い切れないと思う。
見る側の劣化によるところが大きいのだろう。
今の世の中、情報化社会と言えば聞こえはいいが、何でもかんでも親切に説明しすぎる。見る側は理解力が足りないのを棚に上げて「不親切だ」といい、説明が少ないドラマを敬遠する。
その結果が今のドラマの様相だと思う。
元来、映画やドラマは絵や音楽と同じ、芸術作品の一つだと私は見ている。
絵や音楽はその中で中身の説明なんかしてくれない。
その説明の足りない部分(わざとだ)があるからこそ、見る側や聞く側は考える。それこそが芸術だと思う。
勉強に話を寄せれば「読解力」「理解力」「想像力」が求められるのだ。
それを率先して奪い取るご時世だからこそ、私は余白をとって「考える力」に変えさせたい。
数学の解説の式が端折られているなら、なぜそんな式になるのか計算して確かめればいい。なぜそうなるのか、定義や定理から導き出せばいい。導き出す過程をすっ飛ばして「あの参考書は不親切だ」と言うか、何も考えた痕跡を見せずに「なんでこんな式になるんですか?」ととにかく答えだけ知ろうとする。
申し訳ないが、受験、特に大学がそうかもしれないが、大学はそういう軽薄な勉強姿勢がとにかく大嫌いなんだと思う。だから、そんな勉強姿勢でやってきた受験生を排除するような入試問題を作ってくるのだろう。そういう類の問題が、入試参考書界隈で「練られた良問」などと評価されるのだ。
話がずいぶん脱線したが、その余白部分を「考える力」に変えられる人は力を付けられる。その部分を「不親切だ」と文句を垂れる人間はしょせんそこまでだ。
古人は和歌や俳句などで、中で語られない余白部分を「余情」と呼んだ。