勉強における理解はルートがある。数学の計算や英語の文法のように多くの問題にあたって、頭と手に覚えこませるルートがひとつ。もうひとつは自分の頭で整理し、知識を体系化させるルートである。どちらであっても、指導者には生徒たちの頭の中は見えない以上、言葉や字で理解をはからなければいけない。
問題からはかる理解
問題の答えを見ていると、見えてくるものがある。どこを間違えたか、何を間違えたか、計算などではプロセスが正しいか、英語であれば理解に基づいた作文ができているかなどである。
理解が足りていなければさらに演習を積ませる。手持ちのテキストで足りないなら、基礎プリントを補充してでもしつこく理解させる。「まあ、これで大丈夫かな」というような妥協は絶対にしてはならない。そのためにも塾では豊富に教材をそろえておかなければいけない。日々吟味も怠れない。
対話による整理
問題を解くだけではいけない場合もある。理科や社会などだ。理科の場合は知識相互のつながりを理解する必要がある。社会の場合も同様で、用語や人名などは単独では存在しえない。「なぜそうなるのか」、「なぜこんな政治をしたのか」などの理解までがセットになった勉強をしないと、好成績は期待できない。
この理解をはかるのは問題を解かせるだけでは無理。知識を「暗記しただけ」か「理解しているか」が答えからは判別できないからだ。
ここで積極的に導入するのが「対話」。「なんでこれが答えなん?」と質問詰めにすることもあるし、「これって〇〇やからやな?だから△△になって、この答えになるんやんな?」と整理をもう一度目の前で行って確認することもある。
一回ではダメ
問題攻めも対話攻めも一回ではだめだ。日を空けてまた同じことを尋ねる。頭の中に回路がつながっていれば答えられる。その場の理解だけで止まっているなら答えられない。理解不足はまた対話や問題で補う。また日を空けて尋ねる。
これは地味で手間がかかる。でも、しつこくても嫌がられても繰り返す。当たり前のように問題が解けている姿を見る日まで、あくなき追及を続ける。少人数であること、生徒の動きを間近で見られること、好きなだけ学べる環境であること。使える環境をとことん駆使し、生徒一人一人の「本物の理解」を追求し続ける。